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NAZEN吉祥寺結成集会での木田節子さんの講演録

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NAZEN吉祥寺結成集会での木田節子さん(原発いらない福島の女たち)の訴えを紹介します。
長文ですが、原発労働者の母として、原発被曝労働とは何か、廃炉に向かって何が問われているのか、非常に重要な内容だと思いますので、ぜひお読みください。




 今日は、NAZEN吉祥寺に声をかけていただいてありがとうございます。
 たった5ヶ月の間に訳の分からないうちに人前で話すようになり、福島の状況を聞きたいとかあちこちで呼ばれるようになりました。最近は新聞記者からも声がかかるようになりました。もちろんサンケイと読売からはきません(笑)。
 朝日新聞の福井総局の記者から、「私はどうしても木田さんの話をとりあげたかった」と声をかけられました。福井はもう再稼働してしまってどうしても関心が薄い。このままでは福井県民の立ち位置が非常に難しくなる。福島がなければ再稼働しても福井の人は何かあったときに同情を受けられる。しかし福島の事故があっても、福井県知事は再稼働を認める、大飯町長は再稼働を要請している、そして事故が起こってしまったときには、福島のように「安全だといったのに」とは言えないですよね。福井は「日本で一番幸せな県」というキャッチフレーズがあるんです。私はバスガイドをしていたので福井県には何度も行っています。
 その幸せは、原発が18個もあったので、県も町も原子力給付金というお金が入ってきたのです。だから福井県知事は、地域興しとか産業の誘致などで走り回らなくても何十億と言うお金が入ってきたんですね。それに電力会社に橋渡しをすればあぶく銭が入ってきた。そういうことを言うと「証拠はあるのか?」と言われる。私はお金の受け渡しを見たわけではないけど、私は原発のある町に住んでいたので、そういうことは当たり前のように言われている。
 みなさんは、「行って来ます」と言って家を出ても、帰る家があります。普通の暮らしがあります。一人暮らしの人もアパートがあります。一人暮らしで「行って来ます」というのは寂しいですけど、とりあえずは今日出てきた家に帰るわけですよね。その生活が突然断ち切られてしまうことがあるんだなと、そういう体験をしていろいろなものをなくしてしまった者は、死ぬ気で行動ができるということです。

●「私はあの土地も家もあきらめます。だから野田首相も電力会社の人も原発をあきらめてください」
0712kida.jpeg首相官邸前で訴える木田さん

 ちょっと戻りまして、自己紹介させていただきます。私は名前は木田節子です。首相官邸前で初めて意見を言ったときに木田節子だと言ってしまって…。私は以前バスガイドをしていたので、「本日お供をさせていただきますガイドは木田節子です」と言っていたので(笑)そこからなのか…。「私はあの土地も家もあきらめます。だから野田首相も電力会社の人も原発をあきらめてください」って言ったのが、3月11日の首相官邸前の私の第一声だったのです。それがインターネットで紹介されるようになって、そこからものを言うようになりました。
 私は一昨年の11月か12月までバスガイドをしておりました。東北のバスガイドは春・夏・秋働いて、冬になると仕事がなくなるんです。ということで東京の専門学校に通っていた娘の家に転がり込んで、駅のお弁当のアルバイトをして、そして桜が咲くようになると富岡の家に戻ってバスガイドの仕事をしています。全国のお客さんを案内していましたので、しゃべることは苦ではなかった。地震で帰る家もなくなって、仕事をする気もなくなってしまいましたので、今年の3月11日首相官邸前の抗議行動に参加したときに、たまたまマイクが回って来てしゃべったのがさっきの言葉だった。気持ちがよかったんですよね。そういえば10ヶ月間マイクを持っていなかった、しゃべったら結構みんな聞いてくれる。福島県民の苦痛を言えば涙を流してくれる。そして共感してくれる。そして頭に来てこの国の政治家の悪口を言えば、みんな喜んでくれるので(笑)、とっても気持ちがよかった。これが引きこもりの生活から起ち上がる、私の第一歩でした。

●バスガイドとして東電の仕事もしてきた
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 地震のあったとき、最初は地震だとは思わなかった。ちょっと疲れていたので目眩かなと思った。でもテレビを見て自分の住んでいた福島が大変なことになっていて、私の生まれは岩手県釜石なんですが、そのあたりが震源だと聞いて、その晩はとても眠れなかった。夜になって息子から連絡がありました。その日に福島県に居たのは私の息子だけです。福島第2原発で働いていました。東京電力の社員ではありません。協力会社の社員です。その日は上司から大変なときなので自宅待機と言われ息子はすぐに家に帰ったそうです。たった15分で帰れる家なのに2時間半かかってやっと帰ったそうです。家に帰る途中に太平洋側から富岡の町に寄せてくる津波を見たそうです。
 主人は水戸、息子は福島。私は東京の施設で一晩泊まり、娘は松戸、家族がバラバラの状態で一晩明かしたということです。息子からは、「駅に置いてた車が津波で流されてしまった、でも家はどこも異常はなかったよ。今夜は家で寝ます」と。電気もないし、水も出ていない中で一晩明かした。朝になってちょっとだけ電気が通ったのでペットボトルの水でご飯を炊いて、隣のおばちゃんに食べさせてあげた。ガスはついたのでみそ汁をつくってあげた。納豆ご飯とみそ汁でご飯を食べ、残ったご飯をおにぎりにして、何があってもいいように備えていたそうです。
 その「何があっても」の中に、原発の爆発はなかったそうです。原発で働いていて、原発の隠蔽事故、原発がデタラメだったことはいっぱい知っていたし、一昨年の時点で福島第1原発は、去年が40年なので廃炉にするのは当たり前だと言っていたのに電力会社は使用を延長しようとしていたんですね。私たちも息子から聞いていたけど、あの原発を動かすのは異常だよねとは言っていた。でもまさか爆発するなんて思っていなかった。
 ガイドとして東京電力の仕事もしました。富岡の人は弁当代とバス代は電力会社が出して安い旅行ができるんです。PTAのお父さんお母さんたちも、必ず旅行の間1泊2日だったら、渋谷に東電の施設があります、そこに1泊して、横浜にある東京電力の火力発電所を見学する。そういうふうにするとホテル代とバス代は只になるんです。食事代だけ5000円出すんです。それを私は客としてあるいはバスガイドとして参加したりしました。それで六ヶ所村も行きました。柏崎刈羽原発も行きました。女川原発の視察旅行にも行っております。そこできれいな制服を着たお姉さんたちが、「原発は絶対安心なんですよ」だとか、「このあたりで地震が起こったらどうなるんですか?」と子どもが聞いたら、「原発というのはね岩盤の丈夫なところに造っているから地震の影響はないんですよ」と言いました。お仕事として言ったのでしょう。そう言っていた人たちも、今頃は気がついたのかなと思います。

●「引きこもり」から立ちあがって
 3・11から10ヶ月間の間、本を買って読んで、テレビを見て、新聞を読んで、知りました。引きこもりの10ヶ月間は、今にしてみれば無駄ではなかったと思います。10ヶ月間引きこもりから目が覚めたのはなぜかというと、避難している水戸から16㌔先に東海第2原発があります。
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東海村の村長・村上達也さんが「東海村は日本で最初に原子の火がともったところだ。でも私は福島県の避難している人たちの過酷な状況と、福島というところは風評被害を受けるだろう。チェルノブイリみたいになってしまうだろう。それから人間が分断されてしまうだろう。海の物は食べられないだろう。米も作物もきっと買ってもらえなくなるだろうとか、それを茨城県に重ね合わせたとき、とても原発を認めることは出来ないと思った。原発は長い春の夜の夢である。そして福島をあんなことにしたくせに何一つ責任をとっていないこの国の政治家たち。自分も東海村の村長ではあるけれども、この日本に原発を持つ資格はない」と言ったんです。それを『報道ステーション』で見て、この村長さんに会いたいと2月に村上村長さんの講演会を聞きに行きました。講演を聞き終わって自分から「村長さん、私は富岡町に自宅があって水戸に避難生活をしております。あんな原発の爆発事故を起こして大変なことになっているのに、それでも福島県・佐藤雄平知事は原発は間違いだったと言わない。それから私の住んでいるところの町長は富岡町民に、『絶対に帰りましょうね、あなた達の福島に絶対に帰りましょう、そして帰った暁には、帰った人たちの雇用のために第2原発を動かしてもらわないと困る』と言っていた人なんです」と言いました。その富岡町長も、最近心変わりがしたようで、滋賀県の彦根市に行った講演会で、「大飯町長は福島のあの過酷な状況を知らないのか。あんなことが起こっているのに、大飯町長が原発再稼働を許すなんて私には信じられない」と言ったそうです。富岡町長も今になってそんなことを言っている。それは、そういわなければ仕方がない。富岡はもう帰ってはいけないところだと気がついたということです。

●福島の人は、ガレキを東京で引き受けてほしいなんて思っていない
 みなさんテレビを見ているときに、「俺は仮設なんかで死にたくない。先祖の土地守ってきたところに帰りたい。俺は死んだらあのお墓に入りたい」って言っている、可哀相な場面を見ることがあると思うんですが、あれはヤラセですから。言っている人は本心ですよ。でも、もう福島県の避難民のうち、本当に帰りたいと思っている人は10%いるかいないかだと思います。年輩の人たちも、自分たちが帰りたいと言ったら、子どもや孫たちが苦しむ。だって帰ったって孫たちは、戻っては来ないわけでしょ。だから自分たちが帰りたいと言ってたら、孫たちが可哀相だ。自分たちがあそこに住んでいたことが運命だと諦める。
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 なので、私たちはこれは現実と認めて、故郷を去ることは苦しいですけど、でもあそこに住んだ、原発を認めた、交付金をもらって原発を引き受けてしまったんです。私たちが原発を呼んだんじゃないんですよ。私が引っ越したときはもう原発がありましたけど、でもその現実を考えなかった。私の58年の人生で震災の時あそこにいたのは、運命と認めなければならない。
 また、原発の爆発で放射能に汚染してしまったものは、双葉郡で引き受けるしかないと思っています。岩手県や宮城県の瓦礫でさえ、いらないとか引き受けると言っているのに、福島県の放射性の瓦礫を東京に持ってきて、みなさん引き受けてくださいって言ったらイヤでしょう。やっぱりそれは福島県で引き受けるしかないと私は思っています。この意見を福島で言ったら、大ブーイングかもしれませんけど。でもそれを認めなかったら、原発爆発事故の収束は絶対にあり得ない。
 人生58年です。後残っているのは10年か20年。それなら現実は現実と認めて、受け入れます。ただし、許せないのは政治家と電力会社です。それを言っていくために、なにもなくなってしまったので、これからは言っていこうと思っています。

●原発労働者の息子と向き合って
 みなさんが気になるのは、私の息子が原発作業員だということだと思いますが、息子は上から言われるままに「この国は少資源の国だから経済界のために原発はなければ困る」って、それは本心かどうか分からないです。でも、私は息子がそう言うから決別したんです。
 私が水戸に避難しているとき息子がご飯を食べに来て、お父さんとお酒を飲んでいるその姿を見るのが震災以降、ひとつか二つしか楽しみはなかったんですが、子どもがご飯を食べに来るのだけが楽しみだったんです。今年2月にご飯を食べに来たときに、テレビで再稼働の話をしていたときに「バカじゃないのこの国、こんなことが起こっているのに再稼働だって」と言ったときに、息子が「いやしょうがないんだよ日本はエネルギーがないから。だから認めるしかないんだよ」って。「お前何考えてんの」と言ってけんかしたんです。そして、いくらメールや説得をしても「仕方がないんだよ」という。それで、私は息子に言っている思いで、官邸前でマイクでしゃべるようになった。
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 その息子に、東電の方から出向の依頼がありました。息子の会社は協力会社。平常時であれば、東電様に出向なんてなったら、すごい鼻が高い、そんな世界なんです。でもこんなことが起こって、東電に出向なんて言ったら、やりたくない。私はなぜ出向なのかと、東電がリストラして人が足りなくなったからと思ったが、私に情報を提供してくれている人が、「東電は世界中に160の子会社がある。そういうところに社員を送って、被曝要員が足らなくなったから協力会社に出向要請するんだよ。あんたの息子さんの会社がそれを断ったら東電から仕事をやらないと言われる。そしてなぜあんたの息子さんに出向要請がいったか。それは息子が『放管』といって、放射線管理の資格を持っていた。原発をなくすには『放管』という仕事が必要なので、おたくの息子さんに白羽の矢が当たったんだろう。絶対やってはだめだよ。きっとデタラメなスクーリニングのために立ち会いにされる」。でたらめスクーリニングというのは、私たちが一時帰宅のために入る、そしていろんな物を持って出るときのスクーリニングがデタラメだからです。線量が最初から低くしているというのは去年のうちから言われていました。

●被曝労働の実態
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 それから警戒区域の線量の測定です。最終的には福一の収束の作業員だろうって言われました。そうしたら教えてくれたその人の言うとおりでした。呼ばれて6月から、今福一に入っています。それをなんとか取り戻したい。原発で働くのをやめてもらいたいと思って、「お前のお母さんデモで東電の悪口言ってるよな。お前クビだ」って、言われるのを最終目的にして原発反対って叫んでいますけど、今それが言えなくなってしまった。
 それは原発作業員と話すことがあったんですが、「家の息子は、なんで日本が少資源だから原発は必要だなんて言うんだろうね」と言ったら、「お母さん違うよ。分かってるよ。日本の原発のデタラメなことは分かってる。作業員だけじゃない。電力会社と科学者と専門家が一番知っているんだ」って言ってました。「お宅の息子さんがそこへ行くって言うのは、あそこは自分たちの生まれ育ったところだ。たまたま原発で働いていた。あそこを収束させるのは自分たちしかいないんだ。福一のケリをつけるのは俺たちしかいないんだ、みたいな感覚でみんなやっているんだよ。俺はそれを見ているから分かるんだ。」それを聞いたときに、なんとなくそんな思いではないかと思いました。まあ、犠牲の精神というやつですよね。第2次世界大戦の終わり頃に、日本はもう燃料もなかった。戦争に負けるってことが分かっていたのに、特攻隊の人たちに片道燃料で送り出した。みんな片道燃料で「おっかさん」「天皇陛下バンザイ」と言って敵の空母に体当たりしていった。それとすっかり構図が一緒なんです。
 私は日本は平和な国だと思っていました。ですけど実はそうではなかった。非核三原則も全部ウソで、持ってる、つくってる、持ち込ませてる。そういうことを知ったときに、息子を取り返そうということは結局出来ないなと。取り返したいですけど、原発作業員を送り込んでいる親がみんな、作業員をヤメロと言ったら、福一はどうなりますか? 毎日3千人も作業員が入っているそうですけど、あの人たちが作業しなければ、福島第一原発の収束はあり得ないんです。そのために作業員が入っているんです。きっと怖い思いをしてるんだと思います。だけど俺たちが作業しなければだめなんだと、そういう思いで入っている。それを知ったときに、私は息子にヤメロと言えなくなってしまった。やめてほしいですよ。でも、自分の子どもだけ取り返すのでいいのかな、と思うようになってしまった。

●廃炉作業員たちのことを考えてほしい
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 とても原発問題難しいです。明日もまた、日比谷で会うと思うんですが、そのとき「原発反対! 原発いらない!」という言葉は大事ですが、「今すぐ廃炉!」という言葉だけは、言わないでほしい。それは、原発作業員たちは原発はいらないと言うことは分かっているんです。だけど今すぐ廃炉にしたら、福島第一原発だけで作業員が足りないのに、日本中の原発を廃炉にしたら、作業員はどうすればいいんだということです。作業員の人は東京の活動を見てすごく腹が立ったというんです。廃炉にする作業員のことは考えてないじゃないかと言うんです。そういう思いがあって、首都圏のデモに参加するんだけど、「今すぐ廃炉」と言われると、「ああ俺たちの気持ちは伝わらない」と、デモには参加せず集会だけで帰ってしまったということです。それは、作業員の人と話して、私も初めて知ったことです。
 原発はいらないのは、当たり前です。再稼働を止めるのも当たり前です。廃炉も当然なんです。でも今すぐ廃炉は出来ないんです。作業員が足りなすぎるんです。だから、今すぐ止めろ。徐々に廃炉。それから廃炉に入る作業員たちの救済のこともこれから考えていかなくてはなりません。
 野田なんかいなくても、政治家なんかいなくてもいいけど、原発の収束は作業員がいないと成り立たないんです。なので、せめて病気した、入院した、治療したとき、その費用を全額とは言いません。でもあの人たちは社会保険にも入ってません。国民健康保険だそうです。国民年金だそうです。それも何年も滞納しているそうです。被曝作業員の労働環境と年金、社会保険、これをきちんと制度化、立法化してほしい。そのための活動もしていきたいと思っています。
 とにかく原発は間違い。再稼働は反対。廃炉は当然。労働者のことも考えていきましょう。こうした世の中にしたのは50代以上の責任です。だから私たちは死ぬまで、高度経済成長の経験もない、バブルの経験もしていない若い人たちのためにがんばっていきたいと思います。

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